『葬送のフリーレン』というアニメを観た。
ハマった。
アニメも素晴らしいし、原作もいい。
   
だけど一番響いたのは「昔」という時間間隔の違い。
千年を生きてきたエルフのフリーレンと、一緒に旅をする10代の子たちが持つ時間間隔の違い。
   
私も。
若い頃に思っていた『時の長さ』と、60歳過ぎてからの今の私の位置が違う。
時間軸のこのポジションに居る、と認識している自分の位置が違うのだ。
    




私は昔から、人生のこの位置、とか、何年代とかイメージする時に
1本の線というか、棒というか、そういう「時間軸」を基準にしてイメージしている。
   
いまイメージしているのは一本のパイプの中の私。
真っ直ぐなパイプじゃなくて、どちらかというとゴムホースっぽい感じ。
   
10代の頃はパイプの最初の辺りにいた。
20代、30代、まだ先のほうが長いパイプにいた。

けれど60歳になったら振り返る方が長くなった。
まぁ、まだ先がないわけじゃないけれど、確かに20代よりは先のほうが短い。
ただ、どこまで続いているかは未だにわからない。



いつだったか大天使が私のことを「時間軸を視ている」と教えてくれた。
そうなのか、と納得した。
ただ、時間軸そのものが遠くの電線に視えていた当時。
その黒くて太い電線に近づいたら、それは黒い透明っぽい球体の集まりだった。
それも整列状態で並んで電線っぽくなっているのに、さらに近づいてよく見ると歯抜けのようにぽつぽつと球が抜けている。

この球はなんだ?
抜けているのはなんだ?
何かパターンでもあるんだろうか?

そう自分の中に問いかけた途端に、答えが来た。
2進数だと。
球がある、球がない。
あるとない。
1と0。
それの集合体で表されるのは・・・情報。コンピューターと同じ。
そう理解した途端に、時間軸というのはデータベースなんだと納得した。
   
そうか、私達はデータなんだ。魂ってデータなんだ。
コンピューターがどう表現するかという問題で、人の姿が変わり人生が変わるんだ。
と思ったときはちょっと納得と不満が渦巻いた。
私達のこの現世、リアルと呼んでいるこれはデータベースがクロスして編まれるストーリーなんだ、と。

どっこい。
「解釈が極端すぎてちょっと違う」と、ハイヤーセルフでありスピリットガイドでもあるアズマが言う。
データは記録なんだよ、と。
記録の集大成。なるほどデータってのは確かにそう。

過去の記録から未来の記録へと繋いでいく、その中の一点。
その一点というのが、「今」であり、一瞬である、と。
そして私達自身はこの「今」の時点にしか存在しない。
   
未来はデータベースではない。
「未来というのは、想定だろ?」とアズマが答える。
未来の記憶を持ってるやつが何を言う。
    
それでも未来は記録じゃない、とアズマは言う。
RPGのような、プログラミングされた記録じゃない、と。
予想され予測された道筋はいくつもあるけれども。
「想定外というのはいつでもある。むしろ、人の人生の生き方なんて細かくみると想定外が想定なんだ。」
    
それでも、人が望めばその望みが叶う道がその瞬間に構築されていく。それも幾つも。
人が叶う方の道を選ぶかどうかは、想定と想定外を行ったり来たりする。
     
     
だから、『葬送のフリーレン』は面白い。
想定外がいっぱいあるからね。
なるほど、と肯いた。




pyo
2024年3月23日