メッセージが本物かどうか

おはようございますpyoです。
   
スピリチュアルメッセージについての話です。
     
     
自分がキャッチしたメッセージをどう解釈するか?
偽物か?本物か?
信じられるか?思い込みか?
などなど・・・。
     
私も長いこと「自己信頼」で足踏みしてました~。
     
何しろね、「言葉」の思考パターンって、どうしても
習い覚えた言語パターンで雑念として沸いてくるんですよ。
     
     
山、といえば川、のように。
     
例えば「おかけになった電話番号は」という上の句(?)に
「現在使われておりません」という下の句(?)が出てくるように。
    
闇といえば悪魔、 
光といえば神さま、・・・?
   
   
   
これはあくまで「言葉のパターン」で覚えているから出てきた、
ということ、よくあるんです。
  
  
ためしによく見るTV番組などのオープニングの言葉とか、思い出してみてください。
決まった音楽がなり始めると
次の定型句が自然に頭に浮かぶとか、画面パターンが浮かぶとか。
   
   
こうした「記憶」という「情報」が、
まるでIMEが単語を自動学習したがごとく、何かのシーンと繋がって出てくる。
    
    
誰かを嫌いと思ったら、その記憶により
似たようなパターンの顔つくりの人まで、一律で嫌いになるか警戒してしまう。
    
白い四角いガーゼマスク見ると、自動的に安倍総理の顔が浮かぶ・・・とかね。
そして安倍総理に対する感情が、マスクと紐付けられて出てきてしまう。
    
    
こうした「情報・知識」から出てくるもの、
例えて言えば「頭から出る」感じ、
    
そして「情報・知識」に紐付けられた「感情」、
喜怒哀楽な感情は、胸のあたりから出てくる感じ。
    
    
こういう「紐付け」で出てくるのは、高次元からのメッセージではありません。
    
   
   
高次元のメッセージは、知識度外視して、
自分の中から湧き上がってくるんです。
    
なぜかどういうわけか、「知った」瞬間に「はるか昔からとっくに知っていた」と感じるようなこと。 
    
瞑想中に浮かんでくること。
    
    
そして何より、自分と、自分の外の区別が無くなるような
広大で深淵で、だけどそれ全て自分の「内」にある、と確信できる
そんな情報。
   
これが、本質からのメッセージです。
    
   
決して、「耳で聞こえる」とか「目でみえる」ような、
外の情報をキャッチして神経の情報が脳に運んで、
過去の知識から判断してわかる、ようなものではありません。
   
つまり、目で見ることも、耳で聞くことも、ないんです。
   

     
    
これら本質からの情報をキャッチするには
最終的に「理解する」という事が必要になるので、
やはり頭での理解、というのが最後に来ます。
    
ここが、雑念だらけで思考パターンに振り回されているとか
知識や感情にコントロールされていると、
それらの情報のほうが強く押し出されてくるので、振り回されて
   
理解や判断が困難になってしまいます。
    
   
例えてみると、
大音量の街頭宣伝車が近くを通っていったとか、
選挙カーが交差点のあっちとこっちに3つくらい集まって一緒に街頭演説始めたとか、
    
さらにそれに加えて上空をTV局のレポートヘリがホバリングしまくっているとか、
雑念や感情のうるささって、こういう凄まじさがあります。
    
そういう中でクラシック音楽の静かな名曲を聞こうったって、無理ですよね。
    
    
   
瞑想するために雑念を手放していく、
感情のブレ、とくに怒りに対してアンガーコントロールをしていくこと、は
こうした自分の中にある騒音を消していくこと、手放していくこと、なんです。
   
そうすると、静けさの向こうに
本質からの呼びかけが、そ~っと届いていることに、気づく。
   
    
   
あれはああだったのか、
これはこうだったのか、
あれはどういう意味だったのか、
受けた仕打ちに対しどういう感情を持つべきか・・・
   
といった、理屈をこねるのは執着にすぎません。
   
そしてその執着を手放せないのは、そこに依存してるからかもしれません。
そこにはお互いの共依存の関係もあるかもしれません。
   
   
そこから抜け出したいのなら。
   
過去のことは、過去のこと。
もう終わった、として分析はやめて手放すことです。
   
心も、頭の中も、雑念を手放してしまえば
静けさの中に身をおいて、日々を過ごしていけます。
    
   
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