朝起きて、TVをつけると 爆撃の映像。戦争のニュース。
爽やかなうりずんの季節にこんな毎日。
画面の向こうでは、真っ白なイスラムの服を着た人々がこぶしを振り上げている。
「異教徒の…」という言葉が聞こえた。
異教徒。
この時代になっても、まだ、この言葉に振り回されるのだろうか。
暗い気持ちで考えながら、ふと、戦争を始めた当の大統領が
イスラム教徒の人々と自分に「違う物の考え方がある」ということを理解してなかったのでは?などと考えてしまった。
国が違い、住む土地が違い、自然が違う。
言葉も違う、言葉で表すものごとの順序が違うこともある。
それを無視して自分の考えを力で押し付けようという考えが、「異教徒」を恐れる最大のものじゃないだろうか。
異教徒という言葉には、何か恐怖感といった響きを感じる。
昔、ビーチで楽しくおしゃべりしていた米国人に「あなたたちはクリスチャンでしょう?」と聞いたら 当然、という顔でうなずいた。
「私はクリスチャンじゃない。」といったら、その場に緊張感が漂った。
身体のでかい、毎日訓練している米兵ですら、ひとりの小さな小娘が異教徒だと口にした途端にこんな風に緊張するものなのか。私はそのことに驚いた。
なぜ、宗教というものが心を柔らかくするものではなく
まるで戦いの理由になるものかの如く扱われるんだろう。
相手の生き方を尊重し、認め、それをベースに友情を築くことはできないのだろうか?
出勤して会社の窓を開ける。
明るい暖かい沖縄の日差しと鳥たちのせわしない鳴き声、
そしてうりずんの心地よい風が吹き付けてくる。
窓の向こうにはフェンスがあり、ゲートで米兵たちが中に入ろうとする車をチェックしている。
米軍基地問題の解決に、沖縄はずっと「対話」で解決しようとしてきた。
決して、銃を持って解決すべしとはしなかった。
相手の立場も世界情勢も尊重しながら、こちらの問題も理解してくれ、尊重してくれと訴えてきた。
それでもまだアメリカは銃を持って解決するのが一番良いといいたいのだろうか。